ちょっとした親近感か自意識過剰
「桜、今年は綺麗に咲かないかもしれない。」
たとえばこんな戯言を放ったところで、誰も信じやしない。
桜は毎年春になると美しく花を開き満面の表情を見せる。桜が美しい事は、万人の共通理解的なところがあるから、昔は “花” という一単語で “桜” を意味したし、現在も「お花見をしよう!」と言えば大抵が桜を見ることであり、それは暗黙の了解的に桜の下に寄って集って美味しいものを食べたり飲んだり、ワイワイと騒がしくするのだ。これに関しては例外をまれに見ない。
当たり前を問いただす事は至極難儀なのである。
この当たり前に全てを委ねずに、桜が美しいことを不安に感じた梶井基次郎とかいう男については、ちょいと独特であると評されてしまうだろうな。
しかし、少しこの男の言い分に耳を傾けてみようではないか。なーんにも変わっちゃあいない。これが日本人の真理である。幸せなことが続けば、どうも次は不幸が降りかかるんじゃあないか?ルーレットで赤が続けば、次は黒が出るんじゃあないか?
“桜が美しすぎれば、その樹の下には屍体が眠っているんじゃあないか?”
あまりにも彼は慎重で、日本人らしすぎたなぁと思う。
彼に親近感を抱いたというか、何というか、私は毎年、桜が少し恋したようなあの姿を見せる前に考えてしまうことがあって、それは
今年の桜は美しく花開かせるのであろうか
と言うことだ。
アノ美しさに保証は無いのだから。毎年、花開かずして皆が、今年の花見の計画をたてていることに不思議でしょうがないのだ。あゝ心配だよ私は。
結局毎年桜は美しく私の“上”をゆく。