善良少女と仏様
私の綴る言葉にはいつもまとまりがない。
このような文章だけでなく、普段の会話にもまとまりがない。チョコレートの話をしていたかと思えば突然ファッションブランドの話になっていたりする。自分でも驚きの才能である。
一瞬、“まとまりがない”ということがまとまりなのではないか?などと戯けたことを言ってみた。共通点がないことこそが共通点、みたいな。まあ、それがまとまりと認められたところで、“まとまりがない” 状態からの脱却はできていないのだから、全く万事休す といったところか。
ところで、坂口安吾のエッセイは何度読んでも飽きない。読めば読むほど面白味が増してくるってものだ。噛めば噛むほど味が薄くなるガムとは真逆の存在だ。自負してはいるが、(自負 という言葉をここでは敢えて使う) 私は見聞がとても狭い。広く様々なジャンルの本を読むことがどうやら苦手で、読んだことある本をまた読んじゃおうなんて思ってしまう。まあガムではないからいいのだ。
デカダン という言葉を知っている人はあるだろうか。
簡潔にいえば、退廃的・虚無的に生きていることである。簡潔だ。しかし、この世界は簡潔さが全てではないよ。この言葉だけではどうもよろしくない印象を受けるだろう。
本来の意味を記すと、19世紀頃だったか、神様を否定する無神論者たちは、人間の精神の拠り所を、神様の代わりにこの世のあらゆる“美”においた。不良・善良、関わらず、美しければそれで良い。真理なんて知ったこっちゃあない。このようなことをデカダンスといった。これを退廃的というのは、どうよ。
私は デカダンを肯定的に捉えたいと思う。
しかしまあ坂口安吾は、おそらくこの言葉を否定的に用いている。エッセイ「不良少年とキリスト」のなかでは、酒を、うまいもんじゃない、通俗な魔物だと評しながらこう綴る。
“忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。(省略) 年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。”
?
忘れてはならないから今一度言うが、彼はそもそも前提としてデカダンという言葉を肯定的には用いていないのだ。しかし本来のデカダンの意味、美の追求に関していえば、酒を飲み酔い続けることを美としているのか?という解釈になり得ない。そして、美しければいいのだ論者たちは死ぬべきでは、とまで提案しているのか。はあ。これは納得がいかない。私は、酒を味わいながら飲むことをとても好む。このエッセイに書かれているように、イキを殺して呑み下し、酔っぱらい、よく眠るために飲んでいるわけじゃあない。そんなのは大層馬鹿げた話だ。それは詰まる所、スタバに寄り、甘いドリンクを写真に収めて味わうアノ感覚と一緒だ。
“ 私は生きているのだぜ。”
はあ。
ここまでくると、神様を捨ててまで求める美しさとは何だろう。仏様を崇拝する私にとっては、皆目見当がつかない。
…ここまで読んでいただいた方がいれば、お分かりだろう、
つまり私はデカダンの解釈に困り果てたのだ。
いくら言葉がまとまらない人間だからといって、これだけ読み飽きたものでさえ、このザマなのである。そろそろ、\ 僕たちは 言いたいことがまとまらない芸人です // などとテレ朝でトークする機会があってもいい頃だ。
明快な解釈の持ち主がいるとしたら、是非とも教えを請いたく、この拙い文章を公開する。
はあ。
結局今日もまとまらなかった。
いつか自分の綴る言葉が “まとまる” その時まで。私は記事を書こうと思う。