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無題

先日、京都へ行きました

 

私は中学時代から「哲学の道」を散歩することに憧れ続けてきました。哲学の道は、哲学者の西田幾多郎が思索に耽りながら散策したことから名付けられた、京都の東山のほうの小道です。今ではすっかり忘れてしまったのですが、中学時代に哲学の道を歩きながら何か考えるようなシーンがある本を読んだんです私、たぶん。内容もすっかり忘れてしまっているのに、哲学の道という言葉と、そこで思索に耽ることへの憧れだけが、私の心の奥深くに残っていたんです。

 

京都には、修学旅行以来の訪問でした。私にとってこの京都訪問は、春休みの息抜きというか、まあ春休み自体が息抜きだろという指摘はありますよね、ただ、はっちゃける旅行ではなく、疲れず、かつ長年の夢を叶える旅行でした。

 

 

3月冒頭、まだ桜は咲いているわけもなく、土曜といえども京都の他の華々しい観光スポットとは異なり、空気は澄んでいて、少し閑静で、疎らに人々が落ち着いて歩いていました。

 

 

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長年の理想でした。この道を歩きながら私の生きているうちの、永遠の議題について考え直すこと。

 

 

私はいつ死ぬべきか

 

 

たとえば太宰治愛する人と入水自殺をし、芥川龍之介は服毒自殺をした。若くして自らの生涯の終点を定めたのです。私たちは、いつ死ぬかわからない不安の中で生きている。100歳近くまで健康に生きるかもしれない、50歳辺りで病気になるかもしれない、いや、あるいは今日明日死ぬかもしれない。小学生の時、保健の教科書に「死ぬのは怖くはありません。死があるからこそ、私たちは今を大切に生きるのです」なんて言葉が記されていたことを今でも覚えているのですが、今を大切に生きることができたって、死への恐怖が無くなる訳ではないのにな、と感じました。小学生の私には重すぎる議題であったし、何なら大学生になった今の私にとっても死とは重い議題です。心臓の位置を再確認してしまいます。

 

事故などの “唐突な死” は残酷すぎる。病気などの “緩やかな死” は切なすぎる。結局私は、死ぬのならば覚悟を持って自殺などの “期限付きの死” がベストアンサーだと思うのです。しかし世知辛いものですよね、自殺はもちろんのこと、安楽死でさえ賛否両論ありますもので。もし私が今、誰かに「いずれは自殺したいのです」などと口にした途端、否定される未来ははっきりと見えます。冗談だと思われるかもしれません。

 

私にとっての死の議題について、how と when が難しいのです。上に述べたことが how です。ではいつ死ぬべきか。

 

兼好法師の死生観について少し触れます。彼は、徒然草の中で、人間は40歳程で死ぬのが見苦しくなくベストだと綴っています。それ以上になると、もっと生きたいなどと沢山の欲が出てくる、これは愚かしいことだと。まあ結局これは理想であり、兼好法師自身はまあ70歳くらいまで往生したわけですが。

私はこの考えが案外気に入っています。高齢化社会の問題は現在計り知れないほどです。私は人様にご迷惑をお掛けする前に、まだまだ勿体無かったねなんて誰かに言ってもらえるくらいに、そんなタイミングが理想です。実行する勇気はたぶんないですが。

 

 

結局、自分の行く先はぼんやりと、想像もつかないところにあります。

 

 

 

 

哲学の道の小さな水路、覗き込んで映る私の影をじっとりと見つめてみて、私は、この永遠の議題を、また “生きている” うちに、問いにまた京都を訪れようと思いました。