日々

インスタグラムに綴るにはなんかあれ

高速バスにて 復路

これほどまでに混むかよというくらいに高速バス内は混んでいる 2列ずつ並んだ席はもちろんのこと 補助席まで出して満席である 乗り込むにも降りるにも時間がかかり せっかちな私にとってはとても息が苦しかった 往路とはまた異なり 隣に座っていたのは私より年齢は下であろう高校生か大学生くらいの女の子だった 表現できる個性や特徴というものも見当たらず 平凡女と心の中で名付けた

「現在当バスは20分の遅れが出ております」というアナウンスが車内に響く しまった このままではバイトに遅刻してしまう 息苦しさを増したバスの空気は もう抵抗の仕様がないほどに私に重くのしかかった いっそのこと目を閉じて 全てを忘れてしまおうと思ったその時に ふと隣の彼女のスマートフォンの画面のGoogle検索欄の文字が目に留まったのであった

「どうしようもない」「切り替え方」

これをみて はじめはバスの遅延によって彼女のこれからのイベント時間がどうしようもなくなってしまったのではないかと予想したが それも虚しく さらに検索履歴は「生きる」「人生とは」「辛い時に…」などと下に続いていたのである これは本当に見たくなかった 見るべきではなかった もう私はその瞬間 息が全くできていなかったと思う 私が平凡女と名付けた一見普通の女の子 会話をするでもないのでその理由など知る由もないが 何か悩んでいるのだな いやもしかしたら悩んでいる なんて単純な言葉では言い表してはいけない程のことがあるのだな

iPhoneは液晶の面よりも丈夫そうな背面のほうが 実は脆くて壊れやすいんだ」と先日パパは教えてくれたけど 本当だね なんでもないような人 強がっているような人にこそ 本当に用心深く対さなくてはならないのかもしれない

高速バスは仙台市内に入り目的地に辿り着く 結局30分遅れて到着したことなんて バイトに遅れてしまうことなんて どうでもよかった というか忘れてしまっていた 私はそそくさとバスを降りた 下を向いて もう彼女の顔すらみなかった みることができなかった 偶然にも高速バスで隣に座っただけの関係 それ以上でもそれ以下でも決してないのだ

高速バスにて 往路

田舎行きの高速バスは自由席で 休日である今日は混み合うことが予想されていた 私は隣の席に知らないおっさんとかが座ってくるのは耐えることができないなと 敢えてグレーのサングラスをかけて 隣に座りづらい雰囲気を出していた それゆえか「隣 いいですか?」と声を掛けてきたのは 両耳に4つずつピアスをした背の高い細身の若い男であった 妥当か しかしこの線は不覚だった まあ一見怖い人ではあったが 彼の手提げに入っていた12個入りの萩の月の箱と スマートフォンについた可愛らしいキーホルダーに きっと優しい人なんだなと思った 高速バスはゆるりゆらりと私たちを運ぶ サービスエリアの喫煙所から戻ってきたその彼は ほろ苦くてバニラのように甘い煙をまとっていて それがアノ人が吸っていたそれの香りと同じだったから ふと切なくなって 私は思わず窓の外の茜色の叢雲を眺めたのである 

堕落の本質

突然こんな事を言うのも可笑しな話ですけど、死にたくないんだけど生きてゆくのも怖い。特に明確な理由があるわけでもない。ただ怖い。これは前々から思ってはいたんだけれども、さらに 坂口安吾堕落論 はこれに拍車をかける。現代の私たちにとっては、この堕落論はこの主旨、厳しくないですか?と言う感じ。

 

第二次世界大戦後の混乱する日本社会において、逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した“ 作品だ と、ウィキペディアに書かれていたものだから、まあ現代の私たちに共感を得られなくとも仕方がないのかな。

 

敗戦となり、特攻隊の勇士も闇屋に堕ち、聖女も堕落するのは防げないが、それはただ人間に戻っただけで、戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだと

 


ポケモンだってドラクエだって経験を積むことでレベル数値が上がり成長する。このゲームの世界と同じで、いま私が生きているこの世界だって、生きていればいろんなことがあって、これが経験値みたく積み重なって、成長していく。そう思っていたのにな。堕落の本質を否定するわけではないけれども、私たちは生きていくことそのものが堕落のようなものなんだ。そんなこと言われたら、何も知らない、美しいままで終わりたいと願ってしまうよな。

 

ああもうやだやだ くわばらくわばら。

ちょっとした親近感か自意識過剰

「桜、今年は綺麗に咲かないかもしれない。」

 

たとえばこんな戯言を放ったところで、誰も信じやしない。

 

桜は毎年春になると美しく花を開き満面の表情を見せる。桜が美しい事は、万人の共通理解的なところがあるから、昔は “花” という一単語で “桜” を意味したし、現在も「お花見をしよう!」と言えば大抵が桜を見ることであり、それは暗黙の了解的に桜の下に寄って集って美味しいものを食べたり飲んだり、ワイワイと騒がしくするのだ。これに関しては例外をまれに見ない。

当たり前を問いただす事は至極難儀なのである。

 

この当たり前に全てを委ねずに、桜が美しいことを不安に感じた梶井基次郎とかいう男については、ちょいと独特であると評されてしまうだろうな。

しかし、少しこの男の言い分に耳を傾けてみようではないか。なーんにも変わっちゃあいない。これが日本人の真理である。幸せなことが続けば、どうも次は不幸が降りかかるんじゃあないか?ルーレットで赤が続けば、次は黒が出るんじゃあないか?

“桜が美しすぎれば、その樹の下には屍体が眠っているんじゃあないか?”

あまりにも彼は慎重で、日本人らしすぎたなぁと思う。

 

彼に親近感を抱いたというか、何というか、私は毎年、桜が少し恋したようなあの姿を見せる前に考えてしまうことがあって、それは

今年の桜は美しく花開かせるのであろうか

と言うことだ。

アノ美しさに保証は無いのだから。毎年、花開かずして皆が、今年の花見の計画をたてていることに不思議でしょうがないのだ。あゝ心配だよ私は。

 

 

結局毎年桜は美しく私の“上”をゆく。

 

 

 

桜の樹の下には梶井基次郎

 

善良少女と仏様

私の綴る言葉にはいつもまとまりがない。

このような文章だけでなく、普段の会話にもまとまりがない。チョコレートの話をしていたかと思えば突然ファッションブランドの話になっていたりする。自分でも驚きの才能である。

 

一瞬、“まとまりがない”ということがまとまりなのではないか?などと戯けたことを言ってみた。共通点がないことこそが共通点、みたいな。まあ、それがまとまりと認められたところで、“まとまりがない” 状態からの脱却はできていないのだから、全く万事休す といったところか。

 

 

 ところで、坂口安吾のエッセイは何度読んでも飽きない。読めば読むほど面白味が増してくるってものだ。噛めば噛むほど味が薄くなるガムとは真逆の存在だ。自負してはいるが、(自負 という言葉をここでは敢えて使う) 私は見聞がとても狭い。広く様々なジャンルの本を読むことがどうやら苦手で、読んだことある本をまた読んじゃおうなんて思ってしまう。まあガムではないからいいのだ。

 

 

 

 デカダン という言葉を知っている人はあるだろうか。

簡潔にいえば、退廃的・虚無的に生きていることである。簡潔だ。しかし、この世界は簡潔さが全てではないよ。この言葉だけではどうもよろしくない印象を受けるだろう。

 

本来の意味を記すと、19世紀頃だったか、神様を否定する無神論者たちは、人間の精神の拠り所を、神様の代わりにこの世のあらゆる“美”においた。不良・善良、関わらず、美しければそれで良い。真理なんて知ったこっちゃあない。このようなことをデカダンスといった。これを退廃的というのは、どうよ。

 

 

私は デカダンを肯定的に捉えたいと思う。

 

 

しかしまあ坂口安吾は、おそらくこの言葉を否定的に用いている。エッセイ「不良少年とキリスト」のなかでは、酒を、うまいもんじゃない、通俗な魔物だと評しながらこう綴る。

 

 

 

“忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。(省略) 年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。”

 

 

 

 

忘れてはならないから今一度言うが、彼はそもそも前提としてデカダンという言葉を肯定的には用いていないのだ。しかし本来のデカダンの意味、美の追求に関していえば、酒を飲み酔い続けることを美としているのか?という解釈になり得ない。そして、美しければいいのだ論者たちは死ぬべきでは、とまで提案しているのか。はあ。これは納得がいかない。私は、酒を味わいながら飲むことをとても好む。このエッセイに書かれているように、イキを殺して呑み下し、酔っぱらい、よく眠るために飲んでいるわけじゃあない。そんなのは大層馬鹿げた話だ。それは詰まる所、スタバに寄り、甘いドリンクを写真に収めて味わうアノ感覚と一緒だ。

 

 

“ 私は生きているのだぜ。”

 

 

 

はあ。

 

 

 

ここまでくると、神様を捨ててまで求める美しさとは何だろう。仏様を崇拝する私にとっては、皆目見当がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

…ここまで読んでいただいた方がいれば、お分かりだろう、

 

 

つまり私はデカダンの解釈に困り果てたのだ。

 

 

 

いくら言葉がまとまらない人間だからといって、これだけ読み飽きたものでさえ、このザマなのである。そろそろ、\ 僕たちは 言いたいことがまとまらない芸人です // などとテレ朝でトークする機会があってもいい頃だ。

 

 

明快な解釈の持ち主がいるとしたら、是非とも教えを請いたく、この拙い文章を公開する。

 

 

 

 

はあ。

結局今日もまとまらなかった。

 

 

いつか自分の綴る言葉が “まとまる” その時まで。私は記事を書こうと思う。

 

テレパス

 

人間の永遠の議題

 

他者の気持ちを真に理解すること。

 

 

これが簡単にできたら人間生きていくのに苦労はしないよね なんて単純にそう思っていたのだけれども案外そうでもないのかもしれない。

 

 

高台家の人々」というお話をみた。簡単に言うと高台家の兄弟は皆他者の心の声が聞こえるテレパスで、そのテレパスの1人といたって普通の人間が結婚するみたいなお話だった。声に出さなくても本心が相手に伝わってしまう。逆に、声に出していた言葉が本心ではなかったときも。これはさすがに、人の携帯を勝手にいじらないでほしいなどの類のレベルとは一線を越えている。コミュニケーションに誤解が無くなることは良いのかもしれないけれども、自分の本心がそのまま相手に伝わってしまうのは一概に良いとは言えない。

 

 

だって知らなくてもいいことだって、この世の中で人間関係でいつだってあると思うから。

 

 

人間は他者の気持ちに半分盲目で生きていくべきだと、

 

私は常に考えている。

 

 

この世の中の全てを知る必要はないんだ 全てを分かり合えることなど不可能なんだ いい事ばかりじゃあない 知らぬが仏なんて便利な諺だってある そうなんだ。意中の彼に心の中を全て覗かれていたら恥ずかしくて生きていけないだろう。通りすがる人々に自分がどんな風に見られているか全てを知れてしまったら私は街をも歩けないだろう。

 

 

嗚呼、神様仏様。私は他者の心を筒抜けにできずに深夜ベッドのなかでひとり、誰かの気持ちをグダグダと考えることができて辛くとも幸せだ  ありがとう

 

 

憲法に“恋愛”についての項目を書き加えよ

 

 

「恋愛論」

 

これほどまでに興味を引きつつも照れ臭く手に取りづらい書のタイトルがあるだろうか。

 

坂口安吾は恋愛を語る。“恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。” という何とも粋な文章から語り始める。

 

このエッセイは読んでいてくすぐったくなる。

 

恋愛とはいかなるものか、もちろんこんな私には知る由もなく、一般的にどうして人々は好き合ったところで “付き合う” のだろうか、などと戯言をぬかしている毎日だ。そもそも恋愛というものは、義務教育で先生は教えてくれないし、憲法や教科書にも載っていない。恋愛の定義などもない。実に、曖昧すぎるものだと思う。私は恋愛というものを受け入れることはめっぽう苦手だが、興味はある。恋愛の感情とは何か。そもそも人間の感情を簡潔にまとめあげ、確実性のあるものにすることなど不可能なはずだ。私は今好きだと思っているこの生活だって、いつかはきっと飽きて情けなく嫌いになるかもしれない。永遠や絶対という言葉はなかなか使えないものだ。それなのに、ましてや恋愛などに一生を誓えるか。

 

 

しかし、

驚くべきことに、「恋愛論」には恋愛感情の “一般解” が書かれている。私は驚いた。人間の感情なんて計り知れないはずなのに、恋愛の感情の一般解を、坂口安吾は、こんな私でさえ納得させるような的を得たものを遺した。

 

とても くすぐったい。

 

これは、世の中に時々出回っている、さあみんな恋愛をしよう!人生を楽しもう!などという類の押し付けがましい呆れた書では決してない。ただ、素朴で純粋な言葉で溢れている。上手く表現できないが、読んで後悔することのない本だ。坂口安吾といえば、少し難しい文章構成をしがちなイメージがある人もいるかもしれないが、これは無意識のうちに自分の身体に言葉が入ってくるような、優しい文章だ。易しい、ではなく、優しいのだ。

 

 

たった10ページほどのエッセイであるが、初めて読んだ高校時代から、私はこれは日本に生きている皆全員が必読すべきだと思っている。大袈裟ではない。国語の教科書に載せるには少し照れくさいから、日本国憲法の一項目に追加してほしい。

 

とりあえず、一度でいいから読んでくれ。

くすぐったい気分になってくれ。

 

 

 

“ 恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。”

 

 

 

最近知ったんですけど、iPhoneに初めから入っている「ibooks」というアプリのなかで坂口安吾のエッセイはほとんど無料でダウンロードして読めます。是非。