日々

インスタグラムに綴るにはなんかあれ

堕落の本質

突然こんな事を言うのも可笑しな話ですけど、死にたくないんだけど生きてゆくのも怖い。特に明確な理由があるわけでもない。ただ怖い。これは前々から思ってはいたんだけれども、さらに 坂口安吾堕落論 はこれに拍車をかける。現代の私たちにとっては、この堕落論はこの主旨、厳しくないですか?と言う感じ。

 

第二次世界大戦後の混乱する日本社会において、逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した“ 作品だ と、ウィキペディアに書かれていたものだから、まあ現代の私たちに共感を得られなくとも仕方がないのかな。

 

敗戦となり、特攻隊の勇士も闇屋に堕ち、聖女も堕落するのは防げないが、それはただ人間に戻っただけで、戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだと

 


ポケモンだってドラクエだって経験を積むことでレベル数値が上がり成長する。このゲームの世界と同じで、いま私が生きているこの世界だって、生きていればいろんなことがあって、これが経験値みたく積み重なって、成長していく。そう思っていたのにな。堕落の本質を否定するわけではないけれども、私たちは生きていくことそのものが堕落のようなものなんだ。そんなこと言われたら、何も知らない、美しいままで終わりたいと願ってしまうよな。

 

ああもうやだやだ くわばらくわばら。

ちょっとした親近感か自意識過剰

「桜、今年は綺麗に咲かないかもしれない。」

 

たとえばこんな戯言を放ったところで、誰も信じやしない。

 

桜は毎年春になると美しく花を開き満面の表情を見せる。桜が美しい事は、万人の共通理解的なところがあるから、昔は “花” という一単語で “桜” を意味したし、現在も「お花見をしよう!」と言えば大抵が桜を見ることであり、それは暗黙の了解的に桜の下に寄って集って美味しいものを食べたり飲んだり、ワイワイと騒がしくするのだ。これに関しては例外をまれに見ない。

当たり前を問いただす事は至極難儀なのである。

 

この当たり前に全てを委ねずに、桜が美しいことを不安に感じた梶井基次郎とかいう男については、ちょいと独特であると評されてしまうだろうな。

しかし、少しこの男の言い分に耳を傾けてみようではないか。なーんにも変わっちゃあいない。これが日本人の真理である。幸せなことが続けば、どうも次は不幸が降りかかるんじゃあないか?ルーレットで赤が続けば、次は黒が出るんじゃあないか?

“桜が美しすぎれば、その樹の下には屍体が眠っているんじゃあないか?”

あまりにも彼は慎重で、日本人らしすぎたなぁと思う。

 

彼に親近感を抱いたというか、何というか、私は毎年、桜が少し恋したようなあの姿を見せる前に考えてしまうことがあって、それは

今年の桜は美しく花開かせるのであろうか

と言うことだ。

アノ美しさに保証は無いのだから。毎年、花開かずして皆が、今年の花見の計画をたてていることに不思議でしょうがないのだ。あゝ心配だよ私は。

 

 

結局毎年桜は美しく私の“上”をゆく。

 

 

 

桜の樹の下には梶井基次郎

 

善良少女と仏様

私の綴る言葉にはいつもまとまりがない。

このような文章だけでなく、普段の会話にもまとまりがない。チョコレートの話をしていたかと思えば突然ファッションブランドの話になっていたりする。自分でも驚きの才能である。

 

一瞬、“まとまりがない”ということがまとまりなのではないか?などと戯けたことを言ってみた。共通点がないことこそが共通点、みたいな。まあ、それがまとまりと認められたところで、“まとまりがない” 状態からの脱却はできていないのだから、全く万事休す といったところか。

 

 

 ところで、坂口安吾のエッセイは何度読んでも飽きない。読めば読むほど面白味が増してくるってものだ。噛めば噛むほど味が薄くなるガムとは真逆の存在だ。自負してはいるが、(自負 という言葉をここでは敢えて使う) 私は見聞がとても狭い。広く様々なジャンルの本を読むことがどうやら苦手で、読んだことある本をまた読んじゃおうなんて思ってしまう。まあガムではないからいいのだ。

 

 

 

 デカダン という言葉を知っている人はあるだろうか。

簡潔にいえば、退廃的・虚無的に生きていることである。簡潔だ。しかし、この世界は簡潔さが全てではないよ。この言葉だけではどうもよろしくない印象を受けるだろう。

 

本来の意味を記すと、19世紀頃だったか、神様を否定する無神論者たちは、人間の精神の拠り所を、神様の代わりにこの世のあらゆる“美”においた。不良・善良、関わらず、美しければそれで良い。真理なんて知ったこっちゃあない。このようなことをデカダンスといった。これを退廃的というのは、どうよ。

 

 

私は デカダンを肯定的に捉えたいと思う。

 

 

しかしまあ坂口安吾は、おそらくこの言葉を否定的に用いている。エッセイ「不良少年とキリスト」のなかでは、酒を、うまいもんじゃない、通俗な魔物だと評しながらこう綴る。

 

 

 

“忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。(省略) 年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。”

 

 

 

 

忘れてはならないから今一度言うが、彼はそもそも前提としてデカダンという言葉を肯定的には用いていないのだ。しかし本来のデカダンの意味、美の追求に関していえば、酒を飲み酔い続けることを美としているのか?という解釈になり得ない。そして、美しければいいのだ論者たちは死ぬべきでは、とまで提案しているのか。はあ。これは納得がいかない。私は、酒を味わいながら飲むことをとても好む。このエッセイに書かれているように、イキを殺して呑み下し、酔っぱらい、よく眠るために飲んでいるわけじゃあない。そんなのは大層馬鹿げた話だ。それは詰まる所、スタバに寄り、甘いドリンクを写真に収めて味わうアノ感覚と一緒だ。

 

 

“ 私は生きているのだぜ。”

 

 

 

はあ。

 

 

 

ここまでくると、神様を捨ててまで求める美しさとは何だろう。仏様を崇拝する私にとっては、皆目見当がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

…ここまで読んでいただいた方がいれば、お分かりだろう、

 

 

つまり私はデカダンの解釈に困り果てたのだ。

 

 

 

いくら言葉がまとまらない人間だからといって、これだけ読み飽きたものでさえ、このザマなのである。そろそろ、\ 僕たちは 言いたいことがまとまらない芸人です // などとテレ朝でトークする機会があってもいい頃だ。

 

 

明快な解釈の持ち主がいるとしたら、是非とも教えを請いたく、この拙い文章を公開する。

 

 

 

 

はあ。

結局今日もまとまらなかった。

 

 

いつか自分の綴る言葉が “まとまる” その時まで。私は記事を書こうと思う。

 

テレパス

 

人間の永遠の議題

 

他者の気持ちを真に理解すること。

 

 

これが簡単にできたら人間生きていくのに苦労はしないよね なんて単純にそう思っていたのだけれども案外そうでもないのかもしれない。

 

 

高台家の人々」というお話をみた。簡単に言うと高台家の兄弟は皆他者の心の声が聞こえるテレパスで、そのテレパスの1人といたって普通の人間が結婚するみたいなお話だった。声に出さなくても本心が相手に伝わってしまう。逆に、声に出していた言葉が本心ではなかったときも。これはさすがに、人の携帯を勝手にいじらないでほしいなどの類のレベルとは一線を越えている。コミュニケーションに誤解が無くなることは良いのかもしれないけれども、自分の本心がそのまま相手に伝わってしまうのは一概に良いとは言えない。

 

 

だって知らなくてもいいことだって、この世の中で人間関係でいつだってあると思うから。

 

 

人間は他者の気持ちに半分盲目で生きていくべきだと、

 

私は常に考えている。

 

 

この世の中の全てを知る必要はないんだ 全てを分かり合えることなど不可能なんだ いい事ばかりじゃあない 知らぬが仏なんて便利な諺だってある そうなんだ。意中の彼に心の中を全て覗かれていたら恥ずかしくて生きていけないだろう。通りすがる人々に自分がどんな風に見られているか全てを知れてしまったら私は街をも歩けないだろう。

 

 

嗚呼、神様仏様。私は他者の心を筒抜けにできずに深夜ベッドのなかでひとり、誰かの気持ちをグダグダと考えることができて辛くとも幸せだ  ありがとう

 

 

憲法に“恋愛”についての項目を書き加えよ

 

 

「恋愛論」

 

これほどまでに興味を引きつつも照れ臭く手に取りづらい書のタイトルがあるだろうか。

 

坂口安吾は恋愛を語る。“恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。” という何とも粋な文章から語り始める。

 

このエッセイは読んでいてくすぐったくなる。

 

恋愛とはいかなるものか、もちろんこんな私には知る由もなく、一般的にどうして人々は好き合ったところで “付き合う” のだろうか、などと戯言をぬかしている毎日だ。そもそも恋愛というものは、義務教育で先生は教えてくれないし、憲法や教科書にも載っていない。恋愛の定義などもない。実に、曖昧すぎるものだと思う。私は恋愛というものを受け入れることはめっぽう苦手だが、興味はある。恋愛の感情とは何か。そもそも人間の感情を簡潔にまとめあげ、確実性のあるものにすることなど不可能なはずだ。私は今好きだと思っているこの生活だって、いつかはきっと飽きて情けなく嫌いになるかもしれない。永遠や絶対という言葉はなかなか使えないものだ。それなのに、ましてや恋愛などに一生を誓えるか。

 

 

しかし、

驚くべきことに、「恋愛論」には恋愛感情の “一般解” が書かれている。私は驚いた。人間の感情なんて計り知れないはずなのに、恋愛の感情の一般解を、坂口安吾は、こんな私でさえ納得させるような的を得たものを遺した。

 

とても くすぐったい。

 

これは、世の中に時々出回っている、さあみんな恋愛をしよう!人生を楽しもう!などという類の押し付けがましい呆れた書では決してない。ただ、素朴で純粋な言葉で溢れている。上手く表現できないが、読んで後悔することのない本だ。坂口安吾といえば、少し難しい文章構成をしがちなイメージがある人もいるかもしれないが、これは無意識のうちに自分の身体に言葉が入ってくるような、優しい文章だ。易しい、ではなく、優しいのだ。

 

 

たった10ページほどのエッセイであるが、初めて読んだ高校時代から、私はこれは日本に生きている皆全員が必読すべきだと思っている。大袈裟ではない。国語の教科書に載せるには少し照れくさいから、日本国憲法の一項目に追加してほしい。

 

とりあえず、一度でいいから読んでくれ。

くすぐったい気分になってくれ。

 

 

 

“ 恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。”

 

 

 

最近知ったんですけど、iPhoneに初めから入っている「ibooks」というアプリのなかで坂口安吾のエッセイはほとんど無料でダウンロードして読めます。是非。

 

 

私の愛する路上ミュージシャン

深夜3時、

 

デビュー前のゆずが路上で「てっぺん」という曲を歌っている映像をみて、私は泣いた。

 

 

 

私はようやく、この彼らと同じ年齢になった。

 

 

 

 

 

 

私が、ゆずを初めて聞いたのは確か小学4年生の頃、自分のミュージックプレイヤーに父がゆずの曲をいくつか入れてくれたことがきっかけだった。当時、私が持っていたミュージックプレイヤーは、再生中の曲名とアーティスト名のみが文字で表示されるという簡素なものだったので、ゆずというアーティストが何人組でどのような経歴の人たちなのか、知る由もなかった。ただイヤフォンを通して伝わるアコースティックギターのサウンドとどこまでも真っ直ぐな声が心地良かった。「サヨナラバス」「センチメンタル」「夏色」まだ10歳程度の私は、歌詞の意味など到底理解に及ばないのだが、とにかく聞いた。何回も何回も、それだけが楽しかった。

 

中学生になって、ゆずがデュオだと知った頃、私は父が持っていたあまり音色が綺麗とはいえないアコースティックギターを触り始めた。ゆずに少しでも近づきたかった。弦をおさえることは難しく、バッティンググローブを左手につけて弾いた。あの時はまだ、ギターの歌詞コードのサイトが豊富ではなかったので、自分で音を文字に起こして紙に書いて、弾いた。

 

中学3年生の春、私は初めてゆずのライブに行った。

ちょうど東日本大震災の発生から1ヶ月ほど経ったときで、あの時彼らが歌った「雨と泪」と「濃」が今でも忘れられない。

 

高校生になって、流行りのバンドなどに耳を少し傾けながらも、ゆずを弾いた。この頃から、私は年を越す前に必ず「嗚呼、青春の日々」を聞くようになったし、この曲を自分の一生の曲とした。横浜アリーナで、彼らが私の目の前でこの曲を熱唱するのを聞いて、涙した。高校3年生の夏、周りが受験勉強に励む中でも、ライブへ行けばこの曲に涙した。この涙の理由は自分でも解らないが、どうやら身体が勝手にそうなるらしい。彼らにはそれだけの輝きがあって、エネルギーがあって、優しさがあった。

 

 

ゆずを聞き始めて、十年が経つ。

私の人生の半分だ。

 

 

ゆずがデビューしたのは彼らが21歳のときで、私は今20歳で、彼らは一生懸命音楽に向き合っていて、私はアイフォーンの画面をぼんやり眺めている。

 

 

 

 

私が好きな曲のひとつ、「てっぺん」はゆずがデビューする前々から歌い続けていた曲だ。この曲には、ふたりの学歴コンプだったり、音楽の道への強い意志だったりが歌われている。そんな中で、この一節が耳に焼き付く。

 

 

“人を愛すること 意味がわからなくて

それが知りたくて 立ち止まる今日の昼下がり”

 

 

二十歳そこそこの彼らが歌っていたこの歌詞は、二十歳そこそこの私の心を震わせた。

 

現在の彼らは“これ”がもう分かったのだろうか、私にはこの歌詞通りに、まだ意味がわからないし、知りたいと思うよ。

 

そんなこんなで二十歳、何か一つでも自信を持って日々を過ごしたという誇りが欲しい。そんなことを思う、夜更けである。

 

 

五百円玉を拾ったら煙草を買おう

 

 

太宰治の「美男子と煙草」というお話を読んだ。ユーモア交えたちょっとしたネタ話だ。

 

浮浪者のもとへ太宰が行く、という単純な内容だ。重要なことには、この浮浪者が太宰と同様に美青年であり、お金もあまり持っていないくせに煙草を吸っているということだ。美男子が浮浪者とは、どうも想像し難いところはあるが、自惚れを繰り返す果てがこれかと虚しい話ではある。最後には、太宰が浮浪者と写真を撮るのだが、太宰の妻がこの写真をみたところ、写る太宰の姿を“浮浪者”と言ってしまうという自虐的な、太宰らしい、思わず笑ってしまうオチである。

 

一節だけ引用しよう。

 

“ これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永に惚れなさい。”

 

 

何と、ごもっともなことであるか。

これこそ人間が謙虚に質素に生きる術である。

 

太宰は、これを成し得なかった。

 

彼はこの話を通して、私たちに、自分の容姿に自惚れ、煙草をいつまでも吸い、お酒を飲み続けるうちに、浮浪者のように人間の最果ての姿になるぞと、伝いたいのだと思った。そして、この姿を太宰自身に投影した。

 

そして私も、自分自身に投影してみる。

容姿に自惚れてもいない、煙草を吸うわけでもない、お酒を仕切りに飲み続けるわけでもない、この私に。

何故か、心臓が痛くなった。

 

 

結局、私は引用したあの文のような、謙虚で質素な人間生活など、一生送ることのできない性なのであった。

 

 

今度、道端で500円玉を拾ったら吸いもしないセブンスターでも買ってみようと思った。