日々

インスタグラムに綴るにはなんかあれ

平成時代について

 

私はこの文章をフツカヨイ的に綴る。

 

ここ1週間だろうか、私は平成時代に終わりが来ることが気が気でない。しかもその終わりは唐突ではなく、期限付きだ。平成時代は病気や事故で突然に死んでしまうのではない、それは緩やかな自殺のようだ。

 

そして私は、たった20年しか生きていないとはいえ、私は、平成という時代しか知らずにいたことを改めて恥じた。いやそれはそうだけれども。

 

 

愛読が現代の著書が少ないせいか、私は過去の時代に魅了されて仕方がない。特に考えることは、大正時代から昭和時代の日本国、世界では大戦があったりなかったりの、しかし人々は明るく前向きに生きている時代に、私が大学生二十歳で実家を離れ生活する様子だ。しっくりくる例はないが、ジブリ映画の 風立ちぬ の時代程度に考えて頂いて十分だ。私も詳しくはないが、現代のようにラインやツイッターはおろか電子端末があるわけもない、連絡を取るには書を送るか、公共に電話があるか、その程度であっただろう。それは現代の技術に頼り切っている私たちにとっては、身動きが取れなくなるほどに不便で、頭を抱えてしまうほどに切ないことだろう。しかし、それゆえの“良さ”が確かにあったはずなのだ。

 

例えば、人と待ち合わせをするとしよう。集合時間と場所を伝える。そして自分が正しく相手をひとり待つ。相手がなかなか来ないことに自分は焦燥し、居ても立っても居られなくなる。あるいは不慮に与えられたこの時間で、相手はどんな服装で来るか、相手は今どんなことを考えていて、どんな話をしようか、様々なことに想いを馳せることができる。

 

例えば、帰省をするとしよう。現代のように交通も便利ではなかっただろうし、もし仙台から新潟に帰省をすることにつけてもお金とそれから時間がかかり、大学生活において数えるだけしか帰省ができなかったかもしれない。家族や旧友の久しく見ていなかった笑顔に安堵し、変化する新潟の景色に一喜一憂する。会うことのできなかった分だけ想いを語り合い、そして幸福を感じるだろう。

 


これらのことが如何に純粋で、如何に美しかったか。

 


人にラインで「あと〇分遅れる」と手早く連絡をし、月に一度は家族に会うような生活をしている私にとっては、想像するだけでソワソワしてしまう。嗚呼。今だって私はこのようにアイフォーンを用いて文章を綴るんだ。シャーペンひとつすら握らない。

 

 

私は平成時代に大変感謝している。
それと同時に、平成時代を嘆こう。

 

 

この拙い文章を読んでくれた優しい人がいたとして、一緒に平成時代を少しでも考えてくれた明るい人がいてくれたら、私は嬉しいのです。

 


最後に、私は冒頭に“フツカヨイ的に綴る”なんて偉そうなことを述べた。これは確か坂口安吾がエッセイの中で (何の本だか忘れた) 太宰治の文章を評した言葉で、聞いたことがある人にはピンと来たかもしれない。

しかし今の私は、単に昨晩美酒を飲み過ぎ、本当に“二日酔い”なのであった。

偶然ですね、三島由紀夫さん

 

三島由紀夫 割腹自殺の9ヶ月前に録音された肉声テープが発見された と世間では専らの噂だ。

 

私が思わずこれに反応してしまったのは、その前日から偶然にも三島由紀夫の本をチラチラと読み直し始め、鞄の中に入れていたからだった。

 

不道徳教育講座

 

私が三島由紀夫の著書の中で唯一持っているもの。物語ではなく、〇〇するべし という形で様々なテーマについて書き綴られたエッセイである。その書き方は回りくどく、不道徳なことを述べることによって真の道徳を読者に知らしめる、といった形だ。ひとつひとつのエッセイにきちんとユーモアを交えてオチをつけているところが救いではあるが、私の印象としては、まあ面倒くさい。

 

しかし、この本は読んで後悔することはないと思う。現代社会で生きる私たちにとって、忘れてしまいがちなこと、人と人との関わり、人としてのあり方、この本にハッとさせられることが少なくない。

 

時間があったら是非読んで頂きたい。

私が好きなのは、「告白するなかれ」「モテたとは何ぞ」 です。

 

ぼんやりと社会に流され生き、“本質” を忘れがちな私たちに向けて、きっと三島由紀夫は時代を超えて書いてくれたのだと、ちょっと思った。

 

最も俗悪な都市 新潟

坂口安吾のエッセイ 日本文化私観 の冒頭にこんな言葉が綴られている

 

“ タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。”

 

俗悪?

 

坂口安吾といえば、我が母校での大先輩にあたると聞いていたものだから、ひとつは読んでみたいものだと思い、高校生のとき読み始めたものの、いきなりこの文章と衝突する。私は特にこれといって際立った理由はないが、新潟市という街を気に入っているので、“最も俗悪な都市”という言葉にひどく疑念を抱いた。そもそもタウトって誰だ、と。

 

調べてみれば、ブルーノ・タウトはドイツの建築家で1933年から3年半ほど日本に滞在していたらしい。その時に新潟市を訪れた際に大層な酷評をしていくわけです。何を一番悪くいっていたかというと、悪臭。“ 新潟や 悪臭のなかに 藤咲きぬ ” という俳句を残すほどだったそうで。

 

そのときに私のおじいちゃんがよく言っていた、昔の新潟市の街中は沢山の堀があって水の都と言われていたんだ、という言葉を思い出した。そうだった。古町や本町へ行けば、今でもその名残が垣間見える場所がいくつかある。この堀は終戦を迎えて10年ほどしてから、悪臭と、それから自動車などの交通の発達を理由に埋められてしまったとかで。

 

なるほどね、

タウトが評した当時の新潟市は俗悪と言われても致し方ない。

 

 

私は、今の新潟市を、タウトに見せてあげたい。俗悪とはに今来てくれたらきっと、“ 新潟や 信濃の水面に 藤咲きぬ ” なんて詠んでくれるでしょう?

 

 

ヴィヨンの妻 評され方の違和

ヴィヨンの妻

太宰治のなかでも人間失格と同様に、重く考えさせてくれるお話です。何度も読みました。ストーリーとしては単純明快です。しかしそのなかには、何度も読む価値を見出すことのできる言葉がたくさんあります。蛍光ペンでぴぃっと線を引きたいくらいです。

 

 

ヴィヨンの妻 あらすじ と検索してみてください。ダメな夫をもつ妻が強く生きていくようになる話 みたいに書かれていることが多いです。

 

違います。


読んだことのない人にも分かってもらえるように、この夫がどれくらいダメかと言いますと、メンタルが異常に弱いうえ、他の女と遊び、子どもが熱を出していても構わずに酒に溺れ、椿屋という店で3年間もお金を払わずに酒を飲み続け、挙げ句の果てに店からお金を盗み、刃物を振り回し逃亡した程度です。

そんな夫を、ただ家で待ち続けていた妻が椿屋に罪滅ぼしで働き始め、自主性を持ち始める話だと、一般的に知られていると思います。

 

違います。

 

最終的には、妻、名誉も何も捨て客の男と寝て金を得て人間としての美しい生き方を捨てたんです!!!


どんな手使ってでも、世間にどう評価されようとも、生きてさえいればいいやという超超ウルトラ諦観の念と少しの自主性をゲットした妻と それでも相変わらずダメ人間な夫のお話です。

 

世間からの評価が少し違ってるなと思ったことを上に記しただけであり、内容としては素晴らしいので、興味がある人は是非読んでほしいです。以上。