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日々

インスタグラムに綴るにはなんかあれ

ちょっとした親近感というか自意識過剰

「桜、今年は綺麗に咲かないかもしれない。」

 

たとえばこんな戯言を放ったところで、誰も信じやしない。

 

桜は毎年春になると美しく花を開き満面の表情を見せる。桜が美しい事は、万人の共通理解的なところがあるから、昔は “花” という一単語で “桜” を意味したし、現在も「お花見をしよう!」と言えば大抵が桜を見ることであり、それは暗黙の了解的に桜の下に寄って集って美味しいものを食べたり飲んだり、ワイワイと騒がしくするのだ。これに関しては例外をまれに見ない。

当たり前を問いただす事は至極難儀なのである。

 

この当たり前に全てを委ねずに、桜が美しいことを不安に感じた梶井基次郎とかいう男については、ちょいと独特であると評されてしまうだろうな。

しかし、少しこの男の言い分に耳を傾けてみようではないか。なーんにも変わっちゃあいない。これが日本人の真理である。幸せなことが続けば、どうも次は不幸が降りかかるんじゃあないか?ルーレットで赤が続けば、次は黒が出るんじゃあないか?

“桜が美しすぎれば、その樹の下には屍体が眠っているんじゃあないか?”

あまりにも彼は慎重で、日本人らしすぎたなぁと思う。

 

彼に親近感を抱いたというか、何というか、私は毎年、桜が少し恋したようなあの姿を見せる前に考えてしまうことがあって、それは

今年の桜は美しく花開かせるのであろうか

と言うことだ。

アノ美しさに保証は無いのだから。毎年、花開かずして皆が、今年の花見の計画をたてていることに不思議でしょうがないのだ。あゝ心配だよ私は。

 

 

結局毎年桜は美しく私の“上”をゆく。

 

 

 

桜の樹の下には梶井基次郎

 

感謝以外の何でもない

 

“ほんとうのことは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。”

 

 

 

 

別れはとてもつらく寂しい。

こんなにつらく寂しい思いはしたくない。これから先にこの人と私は別れてしまうのだと、この事実を敢えて考えないように、涙が零れ落ちないように、私は平然を装う努力をする。

心がくしゃくしゃになる。

 

だからといって、この人と出会わなければ良かった、などとは微塵も思えないのが人間のサガってやつだ。

 

端的にいってしまえば、この世界の全ての事柄に関して、収束するところは同じなのだ。始まりがあって、終わりがある。

 

 

以前、私が「どうせいつか別れるのに男女はどうして付き合うのだろう」とぼやいた時に、友人が放った言葉が忘れられない。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのかという命題に似てる」

 

私たちはどうせ死ぬ。先祖代々それを学んできて、それでも私たちは生きるのだ。一生懸命に働いて遊んで、食べて飲んで寝て、誰かを好きになったり、誰かと喧嘩をしたり、誰かと大笑いしたりと、何十年とこれを繰り返す。

どうせ死ぬ私たちは、死ぬまでにこれほどまでにも生きるのだ。

 

のちにつらく寂しい思いをするいつものアレだと分かっていても、私はそれを愛し、やめることはない。

 

 

だから今私は、この別れを誇りに思うのです。

 

卒業おめでとうございます。

 

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善良少女と仏様

私の綴る言葉にはいつもまとまりがない。

このような文章だけでなく、普段の会話にもまとまりがない。チョコレートの話をしていたかと思えば突然ファッションブランドの話になっていたりする。自分でも驚きの才能である。

 

一瞬、“まとまりがない”ということがまとまりなのではないか?などと戯けたことを言ってみた。共通点がないことこそが共通点、みたいな。まあ、それがまとまりと認められたところで、“まとまりがない” 状態からの脱却はできていないのだから、全く万事休す といったところか。

 

 

 ところで、坂口安吾のエッセイは何度読んでも飽きない。読めば読むほど面白味が増してくるってものだ。噛めば噛むほど味が薄くなるガムとは真逆の存在だ。自負してはいるが、(自負 という言葉をここでは敢えて使う) 私は見聞がとても狭い。広く様々なジャンルの本を読むことがどうやら苦手で、読んだことある本をまた読んじゃおうなんて思ってしまう。まあガムではないからいいのだ。

 

 

 

 デカダン という言葉を知っている人はあるだろうか。

簡潔にいえば、退廃的・虚無的に生きていることである。簡潔だ。しかし、この世界は簡潔さが全てではないよ。この言葉だけではどうもよろしくない印象を受けるだろう。

 

本来の意味を記すと、19世紀頃だったか、神様を否定する無神論者たちは、人間の精神の拠り所を、神様の代わりにこの世のあらゆる“美”においた。不良・善良、関わらず、美しければそれで良い。真理なんて知ったこっちゃあない。このようなことをデカダンスといった。これを退廃的というのは、どうよ。

 

 

私は デカダンを肯定的に捉えたいと思う。

 

 

しかしまあ坂口安吾は、書きぶりからするとおそらくこの言葉を否定的に用いている。エッセイ「不良少年とキリスト」のなかでは、酒を、うまいもんじゃない、通俗な魔物だと評しながらこう綴る。

 

 

“忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。(省略) 年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。”

 

 

 

忘れてはならないから今一度言うが、彼はそもそも前提としてデカダンという言葉を肯定的には用いていないのだ。しかし本来のデカダンの意味、美の追求に関していえば、酒を飲み酔い続けることを美としているのか?という解釈になり得ない。そして、美しければいいのだ論者たちは死ぬべきでは、とまで提案しているのか。はあ。これは納得がいかない。私は、酒を味わいながら飲むことをとても好む。このエッセイに書かれているように、イキを殺して呑み下し、酔っぱらい、よく眠るために飲んでいるわけじゃあない。そんなのは大層馬鹿げた話だ。あれだよ、スタバに立ち寄り、甘いドリンクを写真に収めて味わうアノ感覚と一緒さ。

 

 

“ 私は生きているのだぜ。”

 

 

 

はあ。

 

 

 

ここまでくると、神様を捨ててまで求める美しさとは何だろう。仏様を崇拝する私にとっては、皆目見当がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

…ここまで読んでいただいた方がいれば、お分かりだろう、

 

 

つまり私はデカダンの解釈に困り果てたのだ。

 

 

 

いくら言葉がまとまらない人間だからといって、これだけ読み飽きたものでさえ、このザマなのである。そろそろ、\ 僕たちは 言いたいことがまとまらない芸人です // などとテレ朝でトークする機会があってもいい頃だ。

 

 

明快な解釈の持ち主がいるとしたら、是非とも教えを請いたく、この拙い文章を公開する。

 

 

 

 

はあ。

結局今日もまとまらなかった。

 

 

いつか自分の綴る言葉が “まとまる” その時まで。私は記事を書こうと思う。

 

無題

先日、京都へ行きました

 

私は中学時代から「哲学の道」を散歩することに憧れ続けてきました。哲学の道は、哲学者の西田幾多郎が思索に耽りながら散策したことから名付けられた、京都の東山のほうの小道です。今ではすっかり忘れてしまったのですが、中学時代に哲学の道を歩きながら何か考えるようなシーンがある本を読んだんです私、たぶん。内容もすっかり忘れてしまっているのに、哲学の道という言葉と、そこで思索に耽ることへの憧れだけが、私の心の奥深くに残っていたんです。

 

京都には、修学旅行以来の訪問でした。私にとってこの京都訪問は、春休みの息抜きというか、まあ春休み自体が息抜きだろという指摘はありますよね、ただ、はっちゃける旅行ではなく、疲れず、かつ長年の夢を叶える旅行でした。

 

 

3月冒頭、まだ桜は咲いているわけもなく、土曜といえども京都の他の華々しい観光スポットとは異なり、空気は澄んでいて、少し閑静で、疎らに人々が落ち着いて歩いていました。

 

 

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長年の理想でした。この道を歩きながら私の生きているうちの、永遠の議題について考え直すこと。

 

 

私はいつ死ぬべきか

 

 

たとえば太宰治愛する人と入水自殺をし、芥川龍之介は服毒自殺をした。若くして自らの生涯の終点を定めたのです。私たちは、いつ死ぬかわからない不安の中で生きている。100歳近くまで健康に生きるかもしれない、50歳辺りで病気になるかもしれない、いや、あるいは今日明日死ぬかもしれない。小学生の時、保健の教科書に「死ぬのは怖くはありません。死があるからこそ、私たちは今を大切に生きるのです」なんて言葉が記されていたことを今でも覚えているのですが、今を大切に生きることができたって、死への恐怖が無くなる訳ではないのにな、と感じました。小学生の私には重すぎる議題であったし、何なら大学生になった今の私にとっても死とは重い議題です。心臓の位置を再確認してしまいます。

 

事故などの “唐突な死” は残酷すぎる。病気などの “緩やかな死” は切なすぎる。結局私は、死ぬのならば覚悟を持って自殺などの “期限付きの死” がベストアンサーだと思うのです。しかし世知辛いものですよね、自殺はもちろんのこと、安楽死でさえ賛否両論ありますもので。もし私が今、誰かに「いずれは自殺したいのです」などと口にした途端、否定される未来ははっきりと見えます。冗談だと思われるかもしれません。

 

私にとっての死の議題について、how と when が難しいのです。上に述べたことが how です。ではいつ死ぬべきか。

 

兼好法師の死生観について少し触れます。彼は、徒然草の中で、人間は40歳程で死ぬのが見苦しくなくベストだと綴っています。それ以上になると、もっと生きたいなどと沢山の欲が出てくる、これは愚かしいことだと。まあ結局これは理想であり、兼好法師自身はまあ70歳くらいまで往生したわけですが。

私はこの考えが案外気に入っています。高齢化社会の問題は現在計り知れないほどです。私は人様にご迷惑をお掛けする前に、まだまだ勿体無かったねなんて誰かに言ってもらえるくらいに、そんなタイミングが理想です。実行する勇気はたぶんないですが。

 

 

結局、自分の行く先はぼんやりと、想像もつかないところにあります。

 

 

 

 

哲学の道の小さな水路、覗き込んで映る私の影をじっとりと見つめてみて、私は、この永遠の議題を、また “生きている” うちに、問いにまた京都を訪れようと思いました。

 

これはただの日記

 

街中のアーケードで指を絡ませながら手を繋いで歩く人々の背中に、その後ろをひとりで歩く私は「不自由」という言葉を投げかける。飲み屋街の路上で唇を重ねる人々には「安い!早い!まずい!」なんてひとりで馬鹿げたことも言える。しかし私のこれまでの20年ほどの人生は自由を振りかざしながらも、どこか慎重だった。Suicaを持っているけど残額があるかどうか分からずに恐る恐る改札を通る感じ。そんな感じ。

 

でもそれは、他者との距離を窺っていたからであって。それくらいは、20年しか生きていなくても分かるんだ。

 

 

 

 

ああ、煙たい。歩きながら煙草を口に咥える人は不自由だ。慎重にすらならないな。

 

 

いや私は煙草は吸わないんだけれども。吸ったことあるってだけ。

初めて吸った煙草の味は、今はまだ覚えているんだけれども、あと数年もすれば忘れてしまうんだろうな。マルボロの優しくない煙が自分の肺の中を伝っていくアレ。

 

煙はすぐに消えるのにな。記憶はなかなかすぐには消えない。 

 

 

 

通りがかったコンビニに吸い込まれるように入った。若い店員さんが私に「いらっしゃいませ〜〜」と挨拶をする。いや、これは挨拶ではなくおそらく単なる言葉の記号のようなものである。あときっと、語尾が長ければ長いだけ退屈なのだろう。いらっしゃいませ〜〜。記号は換気扇の中に流れていく。

 

自由が欲しくて不自由を手にする、

この店員に少しだけ同情してみる。

 

いつも通り、ポイフルとポカリスエットだけ手に取りレジに向かう。店員の後ろに陳列された手のひらサイズの箱を眺めて、言いかけて、やめた。

 

 

お金を払うと、店員は無造作に商品を袋に詰めた。さすがに接客としての態度が良くないな。私のバイト先にこのような後輩がいなくてよかった、なんて思う。

 

 

 

コンビニを出ると、ラーメン屋の行列が傘模様になっていた。天気雨か。原付にワイパーとかないしな。仕方がない。

西日に向かって走り出す。

 

 

 

 

 

 

テレパスっているのかな

 

人間の永遠の議題

 

他者の気持ちを真に理解すること。

 

 

これが簡単にできたら人間生きていくのに苦労はしないよね なんて単純にそう思っていたのだけれども案外そうでもないのかもしれない。

 

 

高台家の人々」というお話をみた。簡単に言うと高台家の兄弟は皆他者の心の声が聞こえるテレパスで、そのテレパスの1人といたって普通の人間が結婚するみたいなお話だった。声に出さなくても本心が相手に伝わってしまう。逆に、声に出していた言葉が本心ではなかったときも。これはさすがに、人の携帯を勝手にいじらないでほしいなどの類のレベルとは一線を越えている。コミュニケーションに誤解が無くなることは良いのかもしれないけれども、自分の本心がそのまま相手に伝わってしまうのは一概に良いとは言えない。

 

 

だって知らなくてもいいことだって、この世の中で人間関係でいつだってあると思うから。

 

 

人間は他者の気持ちに半分盲目で生きていくべきだと、

 

私は常に考えている。

 

 

この世の中の全てを知る必要はないんだ 全てを分かり合えることなど不可能なんだ いい事ばかりじゃあない 知らぬが仏なんて便利な諺だってある そうなんだ。意中の彼に心の中を全て覗かれていたら恥ずかしくて生きていけないだろう。通りすがる人々に自分がどんな風に見られているか全てを知れてしまったら私は街をも歩けないだろう。

 

 

嗚呼、神様仏様。私は他者の心を筒抜けにできずに深夜ベッドのなかでひとり、誰かの気持ちをグダグダと考えることができて辛くとも幸せだ  ありがとう

 

 

憲法に“恋愛”についての項目を書き加えよ

坂口安吾 文学

 

 

「恋愛論」

 

これほどまでに興味を引きつつも照れ臭く手に取りづらい書のタイトルがあるだろうか。

 

坂口安吾は恋愛を語る。“恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。” という何とも粋な文章から語り始める。

 

このエッセイは読んでいてくすぐったくなる。

 

恋愛とはいかなるものか、もちろんこんな私には知る由もなく、一般的にどうして人々は好き合ったところで “付き合う” のだろうか、などと戯言をぬかしている毎日だ。そもそも恋愛というものは、義務教育で先生は教えてくれないし、憲法や教科書にも載っていない。恋愛の定義などもない。実に、曖昧すぎるものだと思う。私は恋愛というものを受け入れることはめっぽう苦手だが、興味はある。恋愛の感情とは何か。そもそも人間の感情を簡潔にまとめあげ、確実性のあるものにすることなど不可能なはずだ。私は今好きだと思っているこの生活だって、いつかはきっと飽きて情けなく嫌いになるかもしれない。永遠や絶対という言葉はなかなか使えないものだ。それなのに、ましてや恋愛などに一生を誓えるか。

 

 

しかし、

驚くべきことに、「恋愛論」には恋愛感情の “一般解” が書かれている。私は驚いた。人間の感情なんて計り知れないはずなのに、恋愛の感情の一般解を、坂口安吾は、こんな私でさえ納得させるような的を得たものを遺した。

 

とても くすぐったい。

 

これは、世の中に時々出回っている、さあみんな恋愛をしよう!人生を楽しもう!などという類の押し付けがましい呆れた書では決してない。ただ、素朴で純粋な言葉で溢れている。上手く表現できないが、読んで後悔することのない本だ。坂口安吾といえば、少し難しい文章構成をしがちなイメージがある人もいるかもしれないが、これは無意識のうちに自分の身体に言葉が入ってくるような、優しい文章だ。易しい、ではなく、優しいのだ。

 

 

たった10ページほどのエッセイであるが、初めて読んだ高校時代から、私はこれは日本に生きている皆全員が必読すべきだと思っている。大袈裟ではない。国語の教科書に載せるには少し照れくさいから、日本国憲法の一項目に追加してほしい。

 

とりあえず、一度でいいから読んでくれ。

くすぐったい気分になってくれ。

 

 

 

“ 恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。”

 

 

 

最近知ったんですけど、iPhoneに初めから入っている「ibooks」というアプリのなかで坂口安吾のエッセイはほとんど無料でダウンロードして読めます。是非。