我が人生は最高だ
先日、久々に旧友と会合をした。
"高校生の頃が懐かしいね。
w組のあの子が官僚になるんだって。
x組のあの子は弁護士になったらしいし、
z組のあの子ははやくに結婚して子どもがいるらしいよ。"
近年、私は他人への興味が薄くなり、こういう類の話は全く面白味なく感じていた。そんな自分をつまらない人間になったのかと思っていたけれども、昨晩秋の清澄白河の夜を歩いていたときにふと思い直すことができた。
いまの私は、未練たらしく今年の夏を懐かしむことが無くなったな、と。
毎年この時季になると、どうも季節に置いて行かれたような感覚になり、途方に暮れていたが、今年は夏は夏で楽しく過ごすことができて、秋、ここでは夜が涼しくなってきたこの時季を秋と定義したいが、これから何をして過ごそうかと未来を向いて生きていくことができている。
愛しい家族、友人と、
さて今晩は何を食べて飲もうか、
週末はどこへ出掛けようか、
今の自分にはこれ以上の余計なモノは要らないんだ。
過去や他人への興味が無くなったことは、つまりは、現在・未来と愛しい人々への興味で満たされているということ。
秋という季節さえ愛しく思える、
我が人生は最高だ。
令和五年九月二十六日
気がつけばヒガンバナもお局さんのような顔をして咲いていた、
本日は、九月二十六日。
コインランドリー帰りの男性 いい香り
からあげくんを食べる中学生たち いい笑顔
習い事のバレエ帰りの女の子
と その隣にはスーツの男性(このご時世、隣にいるから父親と決め付けてはならない)
険しい顔で自転車を漕ぐ女性
にやけた顔で電話しながら歩く男性
四合瓶を抱えて歩く女 ワタクシ
今晩は、純米大吟醸無濾過生でございます。
閉店間際の八百屋を覗いてみる。
昨年の夏はゴーヤが1本100円だったし、きゅうりが3本で100円だった。
今年は野菜が高くて、別に文句なしに給料を貰っているから50円高くなったからといってやれ惨めに買うことができない訳でもないが、どうも手が伸びない。酒は値段を見ずに購入してきたというのに、可笑しなことだ。
そんなこんなで冷蔵庫のなかは虚しく、ヒンヤリとしてしまった。
夏はなんとかバテずに乗り切ったが、“九月”という時季は今年も御多分に洩れず、体調を乱してしまった。身体も心もヒンヤリとする。ゴーヤを買って、チャンプルを作って食べていたなら元気に過ごせていたのだろうか。
過去と比較して現在を“選択”しようとするなんて愚か者。
過去を引きずっては令和の時代は生きていけないね。
歯医者デートをしよう2
たぶん奥歯が痛い。
たぶん、というのも常時痛いというわけでもなく、其れは時々ふいに襲ってくるのである。口の中というものは自分ですらマジマジと見つめることもなく、ただ忘れられ、時たまツウンと痛みが生じているだけなのである。痛イ、と口にしても他人にはこれが伝わるまい。以前にも述べたことではあるが、坂口安吾は歯の痛みは自分以外の誰にも理解してもらえないと記したが、全く頷くばかりである。早くこの痛みから解放されたい、是非歯医者に行きたいという気持ちは往々にしてあるのだが、どうもあと一歩が踏み出せない。そんなときに、ふと“歯医者デート”のことが頭に浮かんだのである。
以前私は、歯医者デートをしよう、と記した。
私は、歯医者デートがしたかった。
しかし気がつけば、歯の痛い我が友はしれっと各々歯医者を予約し、治療し終え、何食わぬ顔で生活をしていたのであった。
私は、歯医者デートがしたかった。
医者の指示通りにあんぐりと口を開け、抵抗もできぬまま銀色の鋭い機械をキリキリと歯に当てられる。其の痛みに対して歯を食いしばることもできずに只耐えるのみ。嗚呼なんと滑稽な姿であるか。その姿は、人間の“弱み”そのものである。
私はその姿を見せることができるほどに、彼女らを心を許せる友、と認識しているのである。歯医者デートは恐らく、湯を共にする所謂“裸の付き合い”よりも奥の深い、友好関係を体現する付き合いであろう。
私は、歯医者デートがしたかった。
其れから数年が経ち、しみる珈琲を啜りながら私は思うのである。
・・・互いのみぢめな姿を、態々見せ合う必要などないのである。なんと愚かであったか。
今の私は歯医者デートなどは、すっかりしたくない。
メンヘラ文化を追撃せよ
メンヘラという文化はとうに醸成されてしまった。其れは大変遺憾なことだ。何故なら、メンヘラが“文化”として台頭したことで、日本男児・大和撫子の心が “時代” から衰退してしまったからように感じるからである。
予め記しておくが、これは反・フェミニズムでもパターナリズムでもない。あくまで個人の概念的見解であり、批評も認めよう。
分かりやすく、音楽文化を一例に挙げよう。
これにおいてもメンヘラ文化は飛ぶ鳥を落とす勢いである。勿論以前からも現在メンヘラと同等に用いられつつある不安や嫉妬心 (抑もこれらがメンヘラと同義にされていること自体も難儀である) は歌われ続けてきた。しかし、男性の弱さ・女々しさ・未練がましさ・不甲斐なさをこれほどまでに公然に堂々と晒す者はいただろうか。いつから世間はこれを認め許し、彼らは恥を恥と弁えず、何食わぬ顔で生きてきたのだろうか。
これは当に、ダイバーシティやジェンダーフリーといった “現世の自由”によって許容してしまった弊害、とも言えよう。しかし、幾らこのような時代とはいえ、我が国で重んじられてきた日本男児・大和撫子の精神は失われてはならない。武士道を重んじ、困難に正面から立ち向かい、確固たる芯を待ち、他人を敬い、今を愛せよ。諸君、此処らで一度己を鑑み、悔い改めてみては如何か。
香水のせいなんかにするな。
自分のせいであることを真正面から自覚しろ。
100日後に死ぬ自分
今日も生きることができて光栄だ.明日も生きることができたらなと思う.
日々健康に生きている人々の中で,自身の死を想像し続けている人はどれくらいいるだろうか.たぶん人々にとって死というのは,遭遇すれば「ああ」と少しだけ反応するような,「ヨッ友」程度の関係なのだろう.本当は常に隣り合わせなはずなのに.親友以上の関係なのに.
100日後の自分が生きていると思うか.
だいいち,100日後と言わずもしかするとコロナウイルスに侵され重篤患者になるかも知れないし,それより前に突然暴走したトラックに跳ねられ空に舞うかも知れない.いつ起こるか分からない大災害に遭い,一瞬で呼吸ができなくなるかも知れない.なんと非道く恐ろしいことか.未来など知る由もないのである.死とは親友以上というよりも,縁を切りたくとも切れない悪友である.
可愛らしい4コマ漫画に何十万もの人がいいねと評価している,その「いいね」の真意とは何なのであろうか.
今日もあのワニは笑顔で,刻々と死に近づいてゆく.